技術の問題であると同時に、技術を使う主体の問題。
産業革命は、人間の身体能力を機械によって拡張しました。電気は社会の基盤を変え、インターネットは人間と情報の関係を変えました。そしてAIは今、知る・考える・判断する・つくるという、人間の知的活動そのものへ入り込んでいます。
AIが社会基盤になるほど、問われるのは「何ができるか」だけではありません。
誰が、何を問い、何を目的とし、何を基準に判断するのか。
AI文明は、技術の問題であると同時に、技術を使う主体の問題でもあります。
情報インフラを越えていく可能性。
AIが、医療、移動、教育、仕事、研究、行政、生活へ深く組み込まれていけば、人間の生命活動や社会活動そのものが、AIと切り離せないほど結びつく可能性があります。
Nescience学は、この可能性を、AIが情報インフラを越えて「生命のインフラ」へ拡張していくという視点から捉えます。
だからこそ問われるのは、誰が、何のために、どのような判断基準でAIを使うのかなのです。
人間とAIは、一つの情報生態系をつくっていく。
AIをめぐっては、人間の能力をAIが上回る「技術的特異点」が議論されてきました。しかし、AI文明はAI単体の進化だけでは捉えきれません。
それらが相互に影響し、新しい環境そのものを形成していく。Nescience学では、この可能性を「生態学的特異点」という研究仮説として捉えます。
AIは人間社会のデータ・言語・問い・評価を学び、その出力は再び人間社会へ戻ります。
人間とAIは、一つの情報生態系をつくっていく。
だから問うべきは、AIはどこまで進化するのかだけではありません。
AIが変わるとき、人間と社会はどう変わるのかです。
技術の性能だけではなく、技術を方向づける主体性。
AIが高度になるほど、人間は多くの判断をAIに委ねることができます。しかし、推薦、評価、予測、最適化が広がるほど、
何を問うのか。
何を目的とするのか。
何を基準に判断するのか。
その形成まで、技術システムに委ねる可能性があります。
技術の主体化
Nescience学では、本来、人間や共同体が形成すべき目的・判断基準・行動方向を、技術が事実上方向づける構造を「技術の主体化」と捉えます。これは、AIが人間と同じ意味で人格や自由意志を持つという意味ではありません。
人間の客体化
同時に、人間自身もデータ化され、分類され、評価され、予測される対象になります。これが、「人間の客体化」です。
必要なのは、AIを拒絶することでも、すべてを人間が支配することでもありません。
問い・目的・判断基準・責任を、人間と共同体が主体的に形成できるのか。
AI文明では、技術の性能だけではなく、技術を方向づける主体性が問われます。
AIに勝つのでも、AIに任せきるのでもない。
AIが人間より速く計算する。
大量の情報を扱う。
仕事を代行する。
すると、「人間にしかできないことは何か」という問いが生まれます。しかし、その問いを続ける限り、人間とAIは能力競争の中に置かれ続けます。
Nescience学が問うのは、人間とAIのどちらが優れているのかではありません。
誰が、何を目的とし、どのような判断基準からAIを使うのか。
論文でも、天然知能と人工知能を能力だけで比較するのではなく、それらの能力を何のために使うのかを方向づける主体構造そのものが問題とされています。
AIに勝つのでも、AIに任せきるのでもない。人間が目的・判断・責任を引き受け、AIの能力を生かす。
その新しい関係を、Nescience学ではAIと人間の共同繁栄として探究します。
どこで、文明は完成するのか。
産業革命は、イギリスから始まった。産業文明は、アメリカで大きく発展した。そして現在、AI革命を大きく牽引しているのもアメリカです。
では、AI革命の先にあるAI文明は、どこで完成するのでしょうか。Nescience学が提起するのは、AI文明を、日本から完成させることはできるのか、という問いです。
技術や能力の競争だけではなく、
人間の認識・尊厳・主体性を基盤に、AIとの共同繁栄をつくる文明へ。
日本から、その可能性をひらくことはできるのでしょうか。
AIを使う主体そのものを育てる教育へ。
AIが知識や能力を担うほど、教育の問いも変わります。
何を知るか。
何ができるか。
01どのような認識から世界を見るのか。
02何を基準に判断するのか。
03何のためにAIを使うのか。
AIを使えることと、AIを何のために使うのかを判断できることは同じではありません。AIの使い方だけではなく、AIを使う主体そのものを育てる教育へ。
Nescience学は、その可能性を世界基軸教育として探究します。